現代文たんブログ

現代文について考えたことなど。

現代文って何のための科目?

 今回は初回ということで、テーマは「どうして現代文が入試に課されているのか」です。別の言い方をすれば、入試現代文はどういう能力をみようとしている科目なのでしょうか。

なんでそんなこと考えるの?

 現代文は科目の性質上、ゴールが曖昧になりがちだからです。
 他教科であれば、なぜその科目が入試で課されているのかは、基本的に「最低限の教養として入学前に知っておいてほしいから」だと考えてよいでしょう。その「最低限」のラインとして、各々の科目のなかで具体的に「高等学校学習指導要領の範囲」が設定されているわけです。ですから、おおざっぱに言えば、この範囲の知識を習得して運用できるようになることが受験勉強上のゴールだとみなせます。
 それに対して、現代文は範囲が明確には存在しません。大学側が入学前に何ができるようになっておいてほしいのか、何を知っておいてほしいのか、他の教科と比べてぼんやりとしています。
 ゴールがよくわからないと受験生はもちろんのこと、教える側も困ってしまいます。この点を確認しておくことは無意味ではないでしょう。

どうやって考えるの?

 一例として、東京大学が公表している資料「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」を手がかりにします。

 国語の入試問題は,「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて,高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし,文系・理系を問わず,現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちませんが,特に古典を必須としているのは,日本文化の歴史的形成への自覚を促し,真の教養を涵養するには古典が不可欠であると考えるからです。このような観点から,問題文は論旨明快でありつつ,滋味深い,品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは,総合的な国語力を養うよう心掛けてください。
 総合的な国語力の中心となるのは
1) 文章を筋道立てて読みとる読解力
2) それを正しく明確な日本語によって表す表現力
の二つであり,出題に当たっては,基本的な知識の習得は要求するものの,それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく,むしろ,それ以上に,自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します。
そのため,設問への解答は原則としてすべて記述式となっています。さらに,ある程度の長文によってまとめる能力を問う問題を必ず設けているのも,選択式の設問では測りがたい,国語による豊かな表現力を備えていることを期待するためです。*1


文言を額面通りに受け取るならば、この資料は東京大学を志望する受験生に向けて書かれたものでしょう。
 「古典」に触れた箇所もありますが、以下では「現代文」に絞って資料の内容に立ち入ります。

「アカデミック・スキル」としての現代文

 まず注目したいのは、「教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちませんが」と述べられている点です。当たり前だと考えているのにわざわざ明言したという事実はさまざまに解釈可能ですが、わたしとしては

「受験生にもこれぐらいのことは自力で気づいてほしいし、言うまでもないほど自明なことだと受け取ってもらいたいが、いちおう明文化しておかなければならない程度には重要な情報だ」

という、大学側の思考の揺れ動きが読み取れなくもないかなと思います。もっと踏み込んだ解釈もできそうですが、あまり書いていないことを推測しすぎてもアレですし、さしあたりこれぐらいに留めておきましょう。

 それだけ重要な情報だとみなせるということで、あえてしつこくこの点を掘り下げます。

 よく言われるように、大学は教育機関である以前に研究機関です。そこでは高校までの学習以上に、授業や講義ではなく学生の意欲と裁量に任せた自習がメインとなります。このとき学生に期待されるのは、各々の興味関心に応じて問題意識をもつこと、その問題意識にもとづいて、その分野の教科書・基本書、さらに研究書や論文などを読むこと、そしてその成果を論文やレポートの形でアウトプットするといったことです。
 ここにおいて、まず文献を読解する能力が欠かせないことは明らかです。またレポートや論文においても、当然文章によって表現する能力が重要となります。
 このように見れば、現代文が入試で課されているのは、こうした「大学での学習に必要な読み書きの基本作法」をテストするためだと考えられます*2。この作法のことを、一種の「アカデミック・スキル」と呼んでもいいでしょう。
 そして現に、この資料でも「総合的な国語力の中心」として、「文章を筋道立てて読みとる読解力」と「それ〔=読解した内容〕を正しく明確な日本語によって表す表現力」が挙げられていました*3。それが具体的にどんな能力なのかは、また次の機会に考えることにしましょう。


 さて、以上で記事タイトルの問いについてはひとまず暫定的な回答を与えることができました。
 しかし「現代文って科目はどういう能力をみようとしているのか」という問いに真面目に答えようとするなら、まだ気になる文言が残っています。
 

「学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めている」
「出題に当たっては,基本的な知識の習得は要求するものの,それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく,むしろ,それ以上に,自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します」

 
この「自己の体験総体を媒介に考える」「自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力」とは、どういう意味なのでしょうか。
 「どういう意味も何も文字通りの意味だろ」という声もあるかもしれません。問題は「自己の体験総体」「自らの体験」です。具体的にどういう体験なのか、いまいち判然としないところがあります。何ならたいていの人は、現代文の授業で「自分の主観を挟まずに客観的に読むように」と教えられた経験があるんじゃないかと思います*4。それなのに他ならぬ大学側が「自らの体験」にもとづいて考えることを求めているというのは、ちょっとダブルバインドの観さえあります。
 これはたんに「それっぽい言葉」を並べているだけなのでしょうか。そう考えられなくもないのかもしれませんが、この資料は大学側が公的な文書として提示しているものです。さすがになにか訳があるのではないかと考えたくなります。

自分の体験にもとづいて考えるって?

 ところで上記の資料は、言ってしまえば全体的に当たり障りのない内容です。正直一読してそこまで重要な内容が書いてあるとは思えません。この資料と対立するポリシーをとっている大学は日本に存在しないんじゃないかと思いたくなるぐらい無難な表現で占められています。(つまり「アカデミック・スキル」の基礎をみようとしているのは、東京大学だけの特殊事情ではなく他の大学についても同様だろう、ということでもあるのですが。)

 この資料、先ほどは受験生に向けられていると解釈しました。しかし本当にそれだけでしょうか。

 そもそも受験生が大学側が求めている能力を確認したいとして、まずはじめに調べるのは過去問でしょう。過去問を見る前にこんな資料をわざわざチェックするのはたぶん少数派です。ひょっとすると、この資料の存在に気づかず受験して合格した子もいるかもしれません。またさっきも述べたように、すごく中身のない資料であるのも確かです。これを読んで受験生が「大学が求めている「国語力」ってのはそういうことなんだな、じゃあこういう勉強をしよう!」なんて行動に移すことがあるとはちょっと想像しづらいです。率直に言って、受験生を想定読者として書かれた資料だとは思いにくいものがあります。
 だとすれば、いったい誰に向けられた、何のための資料なんでしょうか。

 ここから先は、きわめて個人的な見解です。
 この資料はたぶん受験生だけではなく、広く教育関係者に向けたものでしょう。それもおそらく「釈明」のために用意されたものです。
 ポイントは、「現代文における試験の公平性ないし公正性」です。ひとくちに「公平性ないし公正性」と言っても多角的に考察可能なのですが、とりあえずここでは「全員が同一の条件下で受けること」という観点に限定します。このとき現代文においてとりわけ問題になるのは、「受験者の経験や予備知識に依存しすぎない」ことです。

 はじめにも触れたように、現代文には明確な範囲が存在しません。他教科であれば学習指導要領が存在し、それを逸脱しないように作題すれば、受験者の経験や予備知識に依存しすぎないという意味で公平な出題がいちおう可能となります。
 ですが、現代文はそういうわけにもいきません。与えられた日本語の文章をその場で読み解く試験です。知識の習得や運用ではなく「頭の使い方」そのものが問われていると言ってよいでしょう。言語なしで思考できないと前提するつもりは毛頭ありませんが、しかしこの「頭の使い方」は、基本的に言って、これまでどういう言葉を受け取り、どういう言葉で考え、言葉をどういうふうに使ってきたかといった「言語体験」にどうしても影響されてしまうところがあります。
 もちろん決して現代文の授業や学習よりも言語体験のほうが重要だと言っているわけではありません。むしろいま言いたいのは授業や学習だけでなく、授業外の生活時間などを含む「訓練」にあまりにも左右されてしまうところがあるんじゃないか、ということです。「読解力」や「表現力」など、まさにそうした日々の「訓練」に支えられた能力ですから、この点をシビアに受け止めるならば、現代文は受験者個々人の経験に依存しきった「不公平な」試験だと言うことすらできそうです。少なくとも、他教科より公平性ないし公正性の実現がいくらか難しいことは確かです。
 とはいえ、現代文の「不公平さ」をここまで強調するのは、やや極端な見方です。明確な範囲のない現代文といえども、検定教科書はちゃんと存在しています。あくまでも自分の経験を根拠にしか申し上げることはできませんが、高校までの教育課程だって決してアナーキーではないはずです。教育関係者のあいだでも、はたまた出題者のあいだでも「これぐらいなら高校生に期待してもいいよね」という規準は、ゆるやかに合意形成され、また共有されているのだろうと考えています*5
 先に引用した資料は、確かに文字通り「自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力」を大学側が求めていると理解可能です。しかし以上のように考えてみるならば、積極的に何かを求めているというよりは、むしろ現代文の試験実施における「おことわり」を表明しているというのが実相ではないかと、わたしとしては解釈したくなります。

*1:高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと | 東京大学 2019年6月17日閲覧

*2:なお、現代文学習の導入としてこの点を強調される先生は、あくまで管見のかぎりですが、代ゼミの笹井厚志先生、駿台の内野博之先生、東進の林修先生がいらっしゃると思います(このうち、内野先生に関しては『ライジング現代文』pp. 8‐14を参照)。

*3:いずれ別稿にて詳述する予定ですが、大学側から期待されている読解力があくまで「文章を筋道立てて読みとる」程度とされているのは考慮に値すると思います。また、「読解力」と「表現力」が「総合的な国語力の中心」と言うからには、暗黙裡に「総合的な国語力」のいわば「周縁」とも言うべき、その他の能力が想定されていることにもなるのでしょう。その具体的内実についてはいろんな見解が成立しそうですが、現状わたしは回答をもちあわせていません。

*4:これもまた別稿にて論じる予定ですが、わたし個人としてはこの教え方には手放しで同意できません。

*5:この規準に関して、教育関係者のあいだでの見解と出題者のあいだでの見解がどれぐらい一致しているのかという問題はあるかもしれませんが、それは措きます。